ご無沙汰しております。黒輔です。
もう2021年も4分の1が過ぎようとしていますが、皆さんお元気ですか?あ、これ自分で言ってて悲しくなってきた。1月は行ってしまう、2月は逃げてしまう、3月は去ってしまう......。
さて、そんな中で、ようやく今年1回目のブログ更新は『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。やはり波に乗って観てきました。この作品だけは外せない。記事を出すタイミングはやや波に乗り遅れましたが、久々にがっつり語れて満足。
私と『エヴァ』シリーズ
旧シリーズの頃には未だ世に生を受けていなかった私でも、新劇場版シリーズによって、この伝説的作品に触れることができたのはありがたいことです。ただ、「新」とはいっても、前作『Q』はもう、えーと、8年4か月前?当時中学生だった私ですが、今や社会人です。「高校に通ってる間には続きが見られるだろう」と高をくくっていた覚えがあります。実際は、高校はおろか大学すら卒業してしまいました。
とはいえ、私はべつに熱烈な『エヴァ』ファンってわけじゃないんです。むしろ、苦手としている、まであった。だって、なんだか設定は小難しいし、戦闘や人間関係の描写はなんとなく病的で痛々しい。メカとしての人造人間エヴァンゲリオンは、ガンダムやスーパー戦隊ロボに見慣れた私には細長くてどことなく不気味に思えていました(今は好きです)。この「名前は付けられないけど、ことごとくオレのど真ん中に来ねえ!」という感覚を抱いていました。ある友人の言葉を借りるなら「面白いとは思うが、好きではない」作品でした。なので、エヴァに熱狂する周りやネットのオタクたちをやや遠巻きに見ていたのも事実。
しかしながら、この『シン・エヴァ』を通して、私は『エヴァ』シリーズを好きになることができた。なんというか、どこに着地するか予想もつかなかった物語が奇麗に完結したことで、自分の中の『エヴァ』観というものを作ることができた。そんな気がするのです。
※※※以下、ネタバレ注意※※※
特撮へのリスペクト
ご存じのとおり、庵野秀明監督は大の「特撮ファン」。基本的には『帰ってきたウルトラマン』を代表とした巨大特撮が好きらしいんですが、実は『仮面ライダー555』『カブト』なんかも好きなんだとか。メカメカしてるところがツボにはまるのか?
で、今作には「あぁ~これ特撮リスペクトなんだろうな」ってシーンがいくつもありました。観てるこっちがニヤリとするぐらいに。
まずは、先行公開されていたパリ旧市街のシーン。これは、間違いなく、『仮面ライダーカブト』最終回で主人公がパリに豆腐を買いに行ったシーンへのリスペクトですね。...冗談です。エヴァ8号機やたくさんの軍艦をヴンダーから糸で吊っての戦い、あれはまさにミニチュア操演をイメージしていますよね。ぐるんぐるん動いて視覚的にも面白かったし、序盤から緊迫感とヴィレの強い意志を感じることができるシーンで大変引き込まれました。劇場で見てよかったー。
次に挙げられるのは、クライマックスのシンジvsゲンドウ。どことなく「つくりもの」っぽい背景で戦う初号機と第13号機。アニメなのに「特撮っぽさ」を感じることになるとは。庵野監督、『SSSS. GRIDMAN』にも目を通したのだろうか?あれより上手くやれるぜっていう気概すら感じましたよね。ビル街での戦いなんか、蹴散らされる家とか映しちゃって、ホントに巨大特撮やってましたから。あと、葛城邸でのバトルはなんだかシュールで笑っちゃいました(笑)
シンジの記憶をもとに再現された疑似的な世界という設定で、表現に裏付けをとっているのもナイスでした。ゲンドウからはどう見えていたのでしょうね。少なくともミサトさんの家とか見たことないでしょうし......。
最後の最後でのシンジと綾波の対話では、まさにエヴァが「現実の中にある創作物」であることを強調していました。ポイントは「撮影所」であったこと。撮影所で風景のセットや汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオンの「着ぐるみ」をわざとらしく(笑)写すことで、まるで「『エヴァ』はスクリーンの向こうの世界で作った実写映像」であるかのような説明がなされていました。
これは後述する『シン・エヴァ』のメッセージにもつながる部分ではありますが、やっぱり特撮ファンである庵野監督だからこそのシーンだったんじゃないかな。
あと、どこだかのシーンで「913」って数字が煌々と輝いていました。俺でなきゃ見逃しちゃうね!
シンジ、スローライフセラピー
今作の見どころの一つが、シンジの成長。前作『Q』では、正直ひたすら可哀そうだったシンジくん。綾波は救えてないわ、ミサトやアスカには冷たくされるわ、そんな状況から半分ヤケになってみたら、自分のせいでカヲル君が目の前で死ぬ。声を失ったシンジ、いったいどのように立ち直るのか?が見どころの一つでした。
そのカギを握るのは、旧友を中心とした人々の「地に足ついた営み」だったということでしょうか。まさか、トウジやケンスケが生きていたとは... Qでは出てこなかったんで、14年の間に亡くなってしまったのかと思いましたが、元気そうで!しかも身も心も大人になって!嬉しかったですね。
ただ、「精神も肉体も大人になり、人のために働いているトウジやケンスケ」と「精神も肉体も子供のままのシンジ」をどうしても比較してしまい、ちょっとツラい気持ちになりました。なんか、自分だけフリーターのまんま同窓会に顔出してみたら、周りは就職したり結婚したりしてて、疎外感を感じたみたいな。だから、友達にやさしくされて益々ふさぎ込んでしまうシンジの気持ち、痛いほど分かりましたね... こんな自分に優しくしないでくれ!って思うんですよ。
そんなシンジくんですが、段々と「生きたくも死にたくもない」状態から復活していき、だんだんと「生きる」ことができるようになっていきました。辛抱強く見守ってくれるトウジやケンスケのおかげか、アスカの荒療治のおかげか、寄り添ってくれるアヤナミのおかげか、はたまた時間の経過のおかげか......。
理由の一つには、第三村で「生きていく為に助け合って活動する人々」の姿を観て、そこに少しずつでも参加していったことも、間違いなく存在するのでしょう。エヴァらしかぬ下りだったので、「釣りをするシンジ、田植えするアヤナミ」を初めて見た人は驚いたでしょうね。
私事ですが、1人暮らしを始めてから自分も「生活」の意義を感じることができ、作中のシンジくんに共感するものがありました。「生活」、これは「生きるための活動」と書きます。これを自分の手で作り上げると、何というか「地に足ついた感覚」を得られるというか、「自分、まあなんとかだけど、生きてるじゃないの」という気持ちになれるんですよね。その殆どを両親に頼っていた頃には得られなかった感覚を、劇中のシンジくんも感じていた.....といいな。
余談 震災とシン・エヴァ
数々の指摘の通り、災害後を生きる村の人々の姿には、やはり東日本大震災後の人々の姿を感じずにはいられません。(時期的な偶然ですが、コロナ禍で変わった世の中を懸命に生きる人々、も反映されているようにすら感じます)過去にも震災を反映した映画を作った監督ですが、あれは政府の対応や社会の動きを描いた映画でした。今回は、それに対して災害後を生きる民草に焦点を当て描いていたのが興味深かったですね。
『シン・エヴァ』感想ツイートで、「今作は、制作側も、観客側も、作中のキャラクターたちにも、時間が必要だったのだろう」という主旨のものを見かけましたが、震災のような大きな出来事があったからこそ、(さらに、Qと今作の間に『シン・ゴジラ』を制作したからこそ)監督は今作を作り上げることができたのでしょうね。
キャラクターたちのそれぞれ
・アヤナミレイ
あのね、すげーかわいかった(照)。こっちのアヤナミってこんな感じだったっけ?って思うぐらいだった。赤ん坊が急速に外界を学び、自我を獲得していく様、本当にいとおしいし、シンジもその姿を観て感じるものがあったんだろうなあと。
まさか、農業に従事する姿を観ることになるとは思いませんでした。人間が生きるのに最も必要な、「食物」を得るための活動への参加が描かれるのが、心地よかった。
・綾波レイ
影のMVP。14年間、シンジがエヴァに乗らなくていいようにしてくれてたんやな。よく頑張ったよ。「髪だけは伸びる」ってアスカがぶーたれてたけど、レイも伸びてたね。14年間伸ばし続けてたんだな。(髪が様々な情念を巻き込んで伸びていくものだとしたら、人ならざる綾波やアスカにもそういうものがあったってことなんだね。)
・アスカ(とケンスケ)
シリーズを通して、ある意味やっと救われたのかな。「ガキに必要なのは恋人ではなく母親」というアスカのセリフがありましたが、あれって(多分)自分のことを嘲ってみたセリフでもあって。つまり、アスカ自身にも親が必要だったのでしょう。
その視点で考えてみると、大人になったケンスケって意外と適役だと思うんです。今一度振り返ってみると、中学生組の中でケンスケが一番大人だった。周りの人間と適切な距離感をとることができるというか、周りがどんなに変人でも突っかからず、「まぁお前はそういうやつだよな」と受け入れられる器を持っていた。サバゲ趣味にのめり込んでいた故、他人にそこまで興味がなかったのかもしれませんが、それが良い方向に作用したのですね。
アスカがケンスケの中に父性を見出していたのか、母性を見出していたのかまでは分かりませんでした。しかし、親のような恋人のような、「家族」ともいうべき存在、帰るべき場所を得られていたということ――そして、それに気づけたことは、孤独なアスカにとって何よりも救いだったのではないでしょうか。
・トウジとヒカリ
生きててよかったー。様々な事がある現実の中で、根を張って地に足つけて生きていくことを、一番体現していた夫婦だったのではないだろうか。そして、どんな時でも新しい命は生まれてくる。なんと尊いことだろう。
・ミサト
前作、あんなにシンジくんに冷たくしてた理由も一応判明して、とりあえずファンは一安心といったところでしょうか。まぁ、チョーカーのスイッチ入れられなかった辺り、そうなんだろうなとは思っていましたけど。
そして、まさか母親になっていてビックリ。前作の制作時には、もう考えてあったのだろうか?加持リョウジ(少年)は、しっかり加持リョウジ(父)に顔立ちが似ていて、なんだかウルっときました。
余談... 人間がデフォルメして描かれるアニメや漫画では、血縁関係による容姿の相似の表現が「髪色が同じ」「瞳の色が同じ」といった程度に留まることも少なくないと思います。あるいは、逆に顔を全く同じにしちゃうとか。だからこそ、しっかりと顔立ちや佇いといったデザインの雰囲気が父や母に似ていると、制作側のコダワリや人間の遺伝子の神秘を感じることができてとてもGoodです。他作品を例に挙げると、『ONE PIECE』の過去回想で若い頃のロジャーが出てきたとき、息子エースに顔がよく似ていて感動した覚えがあります。余談終了。
なにかとキツかった音色も、サクラの弾丸からシンジを庇ったあたりから序・破の頃のミサトさんの声に戻り、最後は髪形も前に戻り、いつものカメラ角度から見慣れた笑み。2回目を観た時なんか涙がポロポロと出てきちゃって、ウワーってなってました。(語彙力)「加持リョウジくんに会ったよ。」「そう... 元気だった?」←ここの本当に優しくて、2人の息子を包み込むような声が本当に泣ける。
セカンドインパクトで父に庇われたことは、ミサトの生い立ちに深く関わる重要なファクターでした。今回シンジを庇い、さらに息子のために特攻して死を遂げたことで、自分の中の親への蟠りも解くことができていたらいいなと。
・ゲンドウ
全世界を巻き込んだ傍迷惑な大恋慕劇してくれちゃって... 愛の表現が重すぎるよ!でも、終盤の独白は庵野秀明の独白であり、我々ファンのような人々の独白でもあったから、人ごととは思えなかった。
ところで、冬月ってゲンドウとユイの大学の先生なんだそうですが、大学の先生を呼び捨てで呼び、タメ口きくってやばいな。冬月のほうの心境やいかに。そしてユイはマジ無自覚系魔性ウーマン。
・カヲル
やっぱりループしてたんだね。「僕たちは何度もここで会ってる」のセリフで決定的に。TV版24話「最後のシ者」のセルフオマージュシーンは胸熱でした。
そして、「自分がシンジを幸せにしたいのではなく、幸せなシンジを観て自分が幸せになりたかった」という事実に気づいたこと。それをエゴとして断罪せず、肯定的に描いてくれたこと。個人的に賞賛を贈りたい。人間って、究極的には自分のためになることしかやれないと思うんです。他人が喜ぶ姿を観たら、自分もうれしくなるから、そうなりたいっていうのが真実。でも、それでいいんですよ。
渚司令って言われてた理由は、よくわからんけど(笑)。空白の14年間、何かしらで語られないかな......。シン・エヴァのBlu-ray特典とかでさ。
新劇でもミサトやその他の人々に大きなものを残して散る役割の男。ミサトとの愛憎入り混じる複雑なオトナの関係が魅力的でしたが、結局は、自分の種子を残す相手にミサトを選ぶんだよね。意図していたかどうかは分からないけど、あらゆる生物の種を残すプロジェクトを遂行するにあたって、自分の子供をも残していったの、にくい男だなと思います。
あと、ヴンダーから飛び立った生命の種子を格納したユニット(?)のデザインモチーフ、たぶんタンポポの綿毛ですよね。確かに、遺伝子を保存するという目的を鑑みると、有名さも相まってこれ以上ないモチーフだと思います。
・マリ
新劇からのキャラなんで当然と言えば当然なのですが、この子だけ、周りの人々とは違う次元、あるいは円環の外側で動いている感じがしますね。アスカ以外とは目立った絡みが思い出せないし... ほかにだれかと話してたかな?
そんなキャラが、ラストにシンジと手を取り走り出すというのは、メタ的には分かるんですよ。やっぱりエヴァを完璧に終わらせる以上、既存のヒロインではないキャラと主人公が結ばれるのは必然であろうと。
ただ、今まであんまりシンジとマリの絡みってなかったから、心が追い付かなかった(笑)先述の事情もあって、理解はできるんだけどね。マリがユイに並々ならぬ感情を向けていた(らしい)てのも、映画見ただけだとちゃんと分からないはずだし。
『破』で一番最初に会ったとき、シンジに対し「いい匂いがする」と言っていましたが、あれが前振りだったのかなぁ。遺伝子レベルで相性がいい相手って、いい匂いに感じるらしいですし。ホントかなぁ?
「碇」姓の謎
憶測の域を出ない話です。もしかしたら、ただの考えすぎかも。
旧シリーズにおいて、シンジの苗字の「碇」はもともと母ユイのものでした。対して、新劇では父ゲンドウの姓という設定に変更されています。(ご存じの通り、旧シリーズのゲンドウの旧姓は六分儀、新劇のユイの旧姓は綾波。)
これはなぜでしょうか?新劇場版の制作にあたって、単純に設定を整理しただけ、あるいは観客の感覚に合わせただけかもしれません。日本だと、やはり夫になる人の姓を妻になる人が貰い、子供もそれを受け継ぐのがまだまだ多数派ですからね。監督が実際に結婚したことも関係しているのかな。
でも、もし作劇と関係する理由があるとしたら......それは、「シンジと母の話」が強調されているか、「シンジと父の話」が強調されているか、の違いが表されているから、でないか?と私は考えます。
旧エヴァのラストで「父にありがとう 母にさようなら」の文字が出てきますが、その通り旧作は「母からの自立」が大きなテーマだったように思います。エヴァ・パイロットが、母体に座する胎児に見立てられているのは有名な話ですが、最終的には「母にさようなら」するわけです。(できてたかな......)
対して、今作では見ての通り「父・ゲンドウを乗り越え、和解すること」に重点を置いて描かれていました。旧作では、『Air / まごころを、君に』にて、初号機がゲンドウを喰らい、ついぞ対話することなく終わりました。新劇では、ゲンドウによる胸中を吐露と謝罪が行われました。(本当に良かった...!)
この仮説が正しければ、旧劇と新劇物語のテーマ上のつながりが強い方の親に、「碇」の姓が与えられていると言えるのではないでしょうか?旧劇は「母からの自立」をメインに描かれているのでユイが碇姓、新劇は「父の克服」がメインだったにゲンドウが碇姓というわけです。
こうしてみると、旧劇と新劇合わせて、人間が一人前になるには、異性親から自立すること、同性親を克服すること、両方が必要なのだ...ということが描かれているのでしょうかね。(エディプス・コンプレックスの克服ともいえるのかなぁと最初は思いましたが、あくまでモチーフになってるだけで、そのものではなさそう。)
物語、そして結末の意味
ガイウスの槍により、神殺し、ネオンジェネシスを遂行したシンジ。そしてエヴァのない世界を創世しましたが... え、つまりこれってシンジ君が創世神ってことじゃん... この空を抱いて輝く少年が神話になっとるやん... 今生きてる僕たちの世界も、もしかしたらシンジ君が作った世界かもしれないってことじゃないですか。まさかのタイトル回収&主題歌回収。たまげた。
まぁ、与太話はさておき。
現実と虚構の間で揺らぐ人々、とでもいうべきテーマなんでしょうか。シンジvsゲンドウや、その後の新創世のシーンで、「『エヴァ』は創作物」ということが描かれてきました。そして、実写で映された宇部新川駅から大人シンジとマリが走り出していくラストに込められた意味。
旧劇と同じく、「オタクは現実に帰れ」ということか?まぁ、間違ってないけど、ちょっとニュアンスが違う。幾つかの言及の通り、ここで参考になるのが、安野モヨコ『監督不行届』(祥伝社、2005年)への監督の寄稿。
嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。(中略)現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。(中略)『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。
おそらく、これが『シン・エヴァ』のすべてなのでしょう。監督は、現実の中に存在するエンタメ屋として、全力で『エヴァ』を制作した。それは、時に虚構の世界を覗いて、現実で生きていくエネルギー ―ギャグで笑ったり、ストーリーから教訓を得たり、キャラクターの生き様に励まされたり― を、我々観客に持ち帰らせたかったのでしょう。
幸か不幸か、監督が観客を楽しませようと作ったかつての『エヴァ』はあまりにも「虚構としての出来が良すぎた」ため、現実で生きていくべき人々を虚構の中に閉じ込めてしまった。(なんて罪な男なんだ)しかし、ご自身の環境や心境の変化を受けて、もう一度、『エヴァ』を作り、今度こそ「現実に対処して他人の中で生きていく」ことを、改めて、我々に伝えたかったのではないでしょうか?
ついでに言うと、創作物、虚構の世界は、必ず現実の出来事の影響を受けて変化していきますよね。記憶に新しいのは、震災をモチーフにした『シン・ゴジラ』や『君の名は。」ですが、これからコロナ禍の影響を受けた映画やマンガも登場するのだと思います。現実と虚構は、相互に補完し合うものなのだと言えるんでしょうね。
『エヴァ』らしくない『シン・エヴァ』?
今作『シン・エヴァ』を観ることで、私は初めて『エヴァ』シリーズ作品を好きになることができました。それは、裏を返せば今作が、良くも悪くも今までのエヴァらしくない作品であることの証左なのでしょう。友人が、あるいは今作を観た誰かが「エヴァらしくない観了感だった」と言っていた通り。
このことについて、批判的になるファンもいるでしょうが、私は今作を称えたいと思います。決して自分の好みに合うものを出してきた、という理由だけではありません。今まで自分の中でぼんやりとしていた『エヴァ』という作品を、ようやく理解し始めることができた。
観客を虚構に閉じ込める力を持った『エヴァ』は、同時に観客が現実で生きるための力を示唆してくれる作品だった。他者と関わること、自分の捉え方で世界は変わること、生きていくこと... それに気付かせてくれた今作は、間違いなく自分の中で最高傑作の『エヴァンゲリオン』でした。さようなら、すべてのエヴァンゲリオン!