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【もう7年半】東日本大震災回顧録

どうも、黒輔です。

 

※個人的な東日本大震災体験談を書いていますが、不快になる方はお読みにならないようお願い致します。

ここのところ災害が続き、震災の頃が思い出されたのですが、案外記憶が薄れていることに気付き、これ以上忘れていかないようにと書くことに決めました。

 

 

豪雨、猛暑、台風、地震・・・ここ最近、天災が連続しています。

とくに今月の台風21号と北海道地震について、ネットで流れてくる数々の映像には言葉がありません。これ以上、何も起こらないと良いのですが。

 

深夜3時、夜更かししていた僕は「北海道で震度6強」のニュースを見て背筋が冷たくなりました。(のちに最大震度は7だと訂正されました)

自分も震度6強で揺らされたことがありますが、率直に言って、マジで死ぬかと思った。立ってるのが困難なほどだった。しかも、やたらと長かったし。

時間にして2分から3分揺れていたそうですが、体感時間はもっと長かった。幾度となく余震が繰り返されたので、テーブルの下をしばらく出られなかった。

 

あと、90歳近かった曽祖母が防空頭巾みたいなのをかぶり始めてたのが思い出深い。

 

 

そして、次に来るのは停電。

水道やガスも止まったけど電気が使えないのがやはり一番困る。

当時、我が家にいた者たちはたいへん重要なものの存在を、あまりの出来事のために忘れてしまっていた。それは、ラジオだ。

電気が止まっても電池、もしくは手回しで動くラジオは、貴重な情報源となるので、災害時に重宝されます。家に僕含め3人いたはずなのだが、誰も出してこなかった。今思うとゾッとしますね。

災害時にパニックにならないよう、定期的に避難訓練しておくのには意味があるものだと実感した。モノを準備しておいても、使えなければ意味がないから・・・

 

震災の15000人以上にもなる死者の9割は津波関連で亡くなっている。

ただただ余震に怯えていた自分は津波が来るとは頭の中になく。自分の家には津波の被害は(割とギリギリで)なかったのですが、もしもっと海の方に住んでたらどうなってたんだろう。

 

昔利用した仙台空港は水浸しになったし、海沿いの町は瓦礫の山となってしまった。その映像を見ていた関東在住の親戚は僕らがもう死んだと思ったらしい。無理もないか。

空港はいまは元どおりだが、町が戻ることはないだろう。

これほどまでの被害を受けてしまうと、街は無い方が良いかもしれないが・・・

たまに様子を見に車を飛ばすことがあるが、、、子供のころ遊んだ海は、前のような心境で見られなくなった。

 

 

最初の地震が起こってしばらくしてから、雪が降ってきた。

東北では3月でもまだ寒いので雪が降ることはそこまで珍しくはないが、曇天の空も相まって、この世の終わりのように感じられた。

大げさだけどその時の黒輔少年は本当にそう思ったんだよ。

 

その日の夜のことは細かくおぼえてないが、恐らく家の残り物を食べて、そして万が一の時すぐ逃げられるように、普段着のまま家族一緒の部屋で寝たと記憶している。

この段階でようやく、当時所有していたiPodでラジオを聞いてみると、海沿いの町が壊滅状態だとか、県庁の食堂を開放しているとか、県ローカルのラジオが被災者向け情報を繰り返していた。とにかくラジオは役に立つ。

夜中になって父がようやく帰宅し、家族全員の無事が確認された。

 

 

残った人々にとって、本当に大変だったのが翌日以降からだと思う。

家の片付けやら、食料の確保やら・・・ 当時の自分は病気が元で引きこもりがちだったので、非常時とはいえあまり外には出なかった。

いま考えたらみんな大変なのに何やってんねん、という感じだけど。

ラジオを聞きながら、家の中での仕事を主に手伝っていた。近くの小さな公園にトイレが設置されていたので、どうしても催した時だけそこでしていた。

列に並んで食料を確保してくれた家族には感謝しかない。大半がスナック菓子など、きちんとした食事ではなかったが、それでも文句は言えなかった。

 

自宅の電気の復帰は水曜日だったらしい。

当時はスマホを持ってなかったので、停電中はログインできず、ツイッターは「地震だ」みたいなツイートで止まっていた。無事の報告をすると様々な方が反応してくれたので、ありがたかった。

 

ネットに繋がると、ラジオやテレビより様々な情報が得られる。自衛隊や米軍が被害者の救出に尽力してくれていること、様々な人々が協力していることも知ったし、その陰でデマ流しや火事場泥棒がいたり、福島の事故が結構ヤバイらしい、ということも知った。原子力放射線の知識は無かったし、情報が錯綜しすぎてて調べれば調べるほど混乱するような状況だった。

 

友人とネットを介して連絡をとってみると、地元の自治体でもボランティアを募集しているそうだったので、自分も手伝った。友人のリュックが避難所で消えたという話も聞いた。

 

3月の末になって学校が一応、再開した。幸い、学年の中には無くなった同級生はいなかったが、上の学年で何人か亡くなったらしい。

離任する先生が挨拶でそのことを涙ながらに話していたのを覚えている。

 

子供たちは案外、暗い雰囲気ではなかったと思う。ぽぽぽぽーんとか割とネタにしていたし。

今考えると学年で一人も欠けなかったのはたいへん幸いであった。

 

それから、始業式などのスケジュールは変則的だったものの、自分にとっては概ねふつうの生活が戻ってきた。商業施設や空港は徐々に営業を再開した。

同期の中には仮設住宅暮らしになった者もいたから、その人らにとって震災は終わらなかっただろう。

 

仙台の繁華街である一番町を歩くと未だに行方不明者捜索の募金を呼びかけている人がいる。僕を含めたほとんどの人はそれを無視して通り過ぎる。

 

もはや、探しても、もう・・・と、内心では思っている。

 

面と向かってはとても言えないが。未だに2000人以上の不明者がいるから、その関係者にとっては未だに震災は終わってない。

 

その人らにとっては諦めきれず、また例えどこかで分かっていたとしてもそうするしかないのだろう。

 

せめて、彼らが心安らかになる日がやってくると良いのだが・・・

 

 

震災のような出来事が起こると、団結して生き抜こうとする被災者や支援する人、優しい言葉をかける人を見て「人間の良さ」を感じることもあれば、親切の押し売り、被災者差別(特に福島とか)、デマ、火事場泥棒、天罰だ、なんて抜かす奴、便乗値上げ、買い占めを見て「人間の悪さ」を感じることもあった。

人間が良いものか悪いものか、と言うよりは、こういう非常事態にはその人の本性が現れるものだと言ったほうが正しい。

 

個人的な生活はすっかり元どおりになったが、海沿いの町の復興工事はまだまだ途上にある。

 

急いでも良いことではないから、ゆっくりでも確実にやって欲しいと思う。

 

災害の教訓を生かして、今後同じような被害が出ないことを願うばかりだ。